トリリンの「スマイル・ハッピー帝国」

皆さんこんにちは!相変わらず絶望とともに目覚め、諦念とともに眠りにつく毎日を過ごしております。すべてが茶番ですけど、「憂鬱は凪いだ熱情に他ならない」なんて金言のとおり、機を見て燃えれば良いんです。馬鹿野郎!明日やろう!

先日、とんねるずの「みなさんのおかげでした」が最終回を迎えたそうだ。久しぶりに野猿という単語を聞いて小学生の頃にテレビで観た野猿のドッキリで大人が泣かされる姿を見て今で言うところのパワハラの恐怖みたいなものを植え付けられたことを思い出した。パワハラということでいえば、ダウンタウンも同様にして恐怖しか感じなかった。況やたけし軍団をや。無意識にそういう集団のあり方を避けて生きてきた結果が今の自分であるように感じる。先輩から肩パンされて痛がりながらもまんざらでもない表情を浮かべる同級生もいたが、自分は絶対に肩パンなんかされたくなかった。なぜなら屈辱的だし痛そうだから。権力の行使がそのまま笑いと結びついていることに改めて恐怖を感じる春先でございます。

2010年ぐらいまではテレビのバラエティ番組が大好きでゲラゲラ笑いながら見ていたのだが最近は素直に笑えなくなってきた。というのも、バラエティ番組的なユーモアのあり方と今自分が身を置く環境というか日々の暮らしにおけるそれとの距離があまりにも近すぎることに違和感を覚えるようになったからだ。

高校生の頃に男子のノリが芸人っぽくなることってありませんでしたか?あの振る舞いに対する違和感に近いようなものだが、それとも少し違う気がする。テレビの「お笑い」的な価値観の影響力というか浸透力の強さに酔って気分が優れなくなった状態、なのだろうか。むしろ、バラエティ番組が現実社会での我々の振る舞いを反映していると見ることもできるが、どちらにせよ問題は、そこにカメラなどないにも関わらずバラエティ番組的に振る舞ってしまう我々にあることはハッキリさせておきたい。

バラエティ番組的な振る舞いというのは、なんでもオチをつけたがったり、ツッコまずにはいられなかったり、すべらない話を披露するといったものだ。そんなことは生きていれば誰でも行う可能性を持っているし、それは我々の営みとして決して安易に否定すべきでないとは思うものの、バラエティ番組をデフォルメしたような形でそうした「芸」を披露されると身構えてしまう。バラエティ番組内でのみ通用するはずのルールに知らぬうちに絡め取られているような心持ちになる。そういったある種のゲームのようなものに参加したつもりなど一切ないはずなのに、気がつけば「お笑い」的な尺度に合致した形で面白く振る舞わねばならないと心のどこかで考え、実際にそのように行動してしまう。(多数の女性と関係を持つことで男性としての価値がより高まるといった言説を気づかぬうちに自明のものとしてしまうのと同様に。)我々は本当に皆が皆、過去のある時期に芸人になりうる可能性を秘めていた芸人予備軍だったのだろうか。そして、「笑い」というものは各人がそれほどまでに追求しなくてはいけないものなのだろうか。

例えば太っているとか痩せているとか頭が禿ているとか顔がブサイクであるだとか肌が汚いだとか足が短いだとか当人がネガティブに捉えている要素はユーモアにして笑い飛ばせという考えがある。そのコンセプトはわからないわけではない。けれども、それはあくまでコンプレックスとされるものをそのままコンプレックスとして抱えている側の選択肢のひとつでしかない。他人のコンプレックスに対してツッコミを入れたり、それをイジったりするなどして笑いへと「昇華」する側がコンプレックスを抱えた人にそのように求めることに対して強い違和感を覚える。そういうサジェスチョンをする人物が自ら率先してそれを実践しているのかといえば相当に疑わしい。我々はその関係が非対称であることについてあまりにも鈍感すぎはしないか。さらに、積極的であれ消極的であれ、そのように鈍感でいることに違和感を覚えずにすんでいる場を作りあげてきたことを再考すべきだし、誰かをイジったりする際にその根拠となる自らの足場を既得権として手放さずにいることに何かポジティブな面があるのか一度考える必要がありはしまいか。端的にいえば果たして「相手の立場になって考えてみる」という手続きを経る必要などありはしないとたやすく言い切ってしまって良いのかということだ。もし仮に自分が過去にコンプレックスを自らオープンにし人から笑ってもらうことで心が軽くなったというような経験があったからといって、他人も同様に振る舞うべきだと考えてしまって良いのだろうか。

以前、音楽活動に従事する人から「音楽よりお笑いのほうが偉い。なぜなら笑いのほうが人間の本質に近いから」というようなことを言われてガックシ来たし、未だに聞き捨てならないと思っているのだが、この言葉がもたらす途方もない違和感について考えを巡らせた結果、お笑いが人間の本質ではなく日本語あるいは文化、または常識といったものに軸足を置いていることに気がつくことができた。さらに飽きっぽい自分が長年音楽が好きでいられるのはそれが日本語ではないからだと確信した。

ハリウッド映画を観ているときに英語を理解する人が皆と違うタイミングで笑ったりすることがある。これに対しイラっと来た人物が、そのイライラを対象に向けて「英語わかる俺カッコイイ」アピールに過ぎないと揶揄するなどして鬱憤を晴らし溜飲を下げるところを度々目にする。そんな揶揄をしたところで英語がわからないことをコンプレックスに思っていることとその人の抱えるルサンチマンを露呈することにしかならないのだが、裏を返せば、笑いというのは自分が属する、または属したいと願う文化圏を明らかにするものであるということがわかる。だから、笑いを通じて特定の文化に抱かれていることを実感し、時に安らぎを覚えることもある。一方で、このコミュニティには属していたくないという思いから誰かが冗談を言っても絶対に笑うものかと強く心に決め、実行に移すこともある。人は単純におもしろいから笑い、おもしろくないから笑わないというわけではない。笑いは100%ピュアな感情の発露でも合理的な行為でもない。笑いは多分に政治的な側面を持っている。「笑ったら負け」という言葉にはそのような考えが反映されているように感じる。

「笑いには笑えるか笑えないかというシンプル且つ確固たる価値判断基準がある。音楽にはそこまでシビアな基準はない。ゆえに趣味や好き嫌いといった逃げ道を残している音楽はぬるい。当然、それに従事するミュージシャンもぬるい」というようなことを言われてがっくし来たことがあった。なるほど、たしかに笑いというのはそのようにシンプルな価値判断基準に支えられているものかもしれない。しかし、その価値判断基準が影響力を及ぼす範囲には限りがある。決してそれがあらゆる文化圏を支配するほどの効力は持たない。しかし、その文化を自明のものとし、自分の立っている足場がどのように形成されたのか意識しなければ、それほどの効力を決して持っていはいないことに気づかないかもしれない。笑いという行為が感情の発露であることから、それが人間にとっての何か根源的なものに支えられているように感じてしまうことは至極当然のことといえる。

「理解できる人が多いから日本語よりも英語のほうが経済的に優れている」ということと同様、そのユーモアを支えている価値観が通じる範囲が広ければ広いほど経済的であるとはいえる。我々がイロモネアで仏頂面をしている人を、立ち退き反対のノボリを掲げた住宅を見つめるときと同じ眼差しで見つめてしまうのはおもに経済的な理由からである。彼らは流通を妨げる人物として邪険に扱われがちである。

なんでもかんでも笑いにすることが善い行いだと思えないのは、笑いというものがなかなかに狡猾で戦略的でありつつも、いかにもピュアな感情の発露であるという様子で八方に笑顔を振りまいていることに不信感を持っているからだ。ユーモアは、そのユーモアが通じる枠をさらに拡大し、その枠をより強固にするために、敵味方を峻別し、敵を殲滅せしめ、あらゆる土地を支配下に置き、文化を略奪せんとする、なんてことを言うつもりはさすがにないけれど、少なくとも感動が押し売りされているというのであれば、それと同じ程度、あるいはそれ以上に、笑いも押し売りされているといえはしないだろうか。