さみちぃのダーリン日記

昨年の夏、人に勧められてPUBG mobileというスマホのゲームを始めた。100人のプレーヤーが輸送機から戦場へと降下して、武器を現地調達し、最後の一人もしくは最後のチームになるまで殺し合う3人称のシューティングゲームだ。これが非常に面白く、まんまとドハマリしてしまった。帰宅後にスーパーで買った半額の惣菜をつまみにしてホワイトベルグを3缶ほど空けながら朝方までプレイするという生活が冬まで続いた。

「もう一回、あともう一回。こんな死にざまでは終われない。あと一回」そんなことを繰り返して寝不足になる。プレイ中の姿勢が悪いので首や肩が痛くなる。眼精疲労から頭が痛くなる。他のことが手につかなくなる。駅のホームでプレイしていて待っていた電車を見送ってしまうなどの問題が発生し、冬頃から仕事が重なり忙しくなったこともあり、思い切ってアンインストールした。しばらく禁断症状に苛まれたが、仕事に没頭することでなんとかやり過ごすことができた。

春先、忙しさから解放されて急に暇になったのでつい出来心でPUBGを再開してしまった。PUBGに関する調べ物をするうちにYouTubeのPUBG実況動画に行き着き、れいしー、まがれつ、ぽんすけといったPUBG関連の動画をアップしているYouTuberの存在を知り、ますますPUBGの沼に絡め取られてしまうことになった。小学生の頃から「夜もヒッパレ」という日テレで放映されていた番組に対し、芸能人のカラオケなんか見て何が面白いというのか、ふざけるなと思っていたような人間なので、ゲーム実況も同様に、馬の骨がゲームをやるところなんて見たって面白いわけがないだろうと決めつけていたが、これが大変面白くて毎日見るようになった。この時期に思い切ってiPadも購入。アジアサーバーではあるもののランクを上げて「エース」の称号を手に入れた。

そうこうするうちに、寝不足、他のことが手につかなくなるなどの問題が再発。せっかく始まった連載のための準備が後回しになりがちで、これはさすがにまずいと思って再度アンインストールした。この1年半で10キロぐらい太ったこともあって、生活全般を見直す時期が来ていた。PUBGをやめてダイエットも開始した。

ある程度は予想ができていたことだが、PUBGが占めていたスペースに入り込んできたのはやはりSNS、特にTwitterであった。Twitterをダラダラ眺めているぐらいならPUBGをやっていたほうが何倍も良いとは思うものの、物事をほどほどにしておくということができない性格なので、PUBGに手をつけるわけにはいかない。

学生の頃、週に一度、原宿にある飲食店でアルバイトをしていた。原宿といえば、我々がイメージする通り、オシャレをした若者たちが闊歩する街だ。気合を入れてめかしこんだ人物がガードレールに腰掛けてストリートスナップの撮影班に声をかけられるのを待っているところもよく目にした。

原宿には人を自意識過剰にさせる雰囲気が漂っている。元々オシャレに興味がないわけではなく、中高生の頃からSmartやBoon、MEN’S NON-NOを読んでいたクチで、少なからずオシャレになりたいという願望があったから、原宿に行く度に芋っぽい風体をした自分がなんだか情けなくなった。

現在はどうなのか不明だが、当時の原宿という場所は非常にコンペティティブな空間だったと記憶している。そこではオシャレというゲームが行われており、人はそのゲームに参加するためにそこに集まっているように思えた。なまじっかオシャレになりたいという願望があるから、そうした空気に当てられてゲームに参加したつもりなどないにも関わらず、敗北感を味わう羽目になる。そもそも自分の場合、コンペティションに勝利する類のオシャレではなく、もっとコンサバであまり目立たないオシャレがしたいと考えているのだから、そんなゲームはこの世に存在しないと考えてしまっても良いはずなのに、心のどこかでつい意識してしまっている。他人の視線を内面化し、自分の選択を常に疑うことが癖になってしまう。他人の視線を内面化すると云えども、自分の価値観の枠内で、閉じた円環状の回路をただぐるぐる回っているにすぎない。一旦自分を括弧に入れて他人のセンスをシミュレートしたものではないからだ。

負け犬根性が抜けない人間はコンペティティブな場に近づかないのが吉。ゆえにTwitterにも近づかないほうが良いのだが、やはりついつい見てしまう。Twitterを見ていると、その雰囲気に当てられて、面白いことやクリティカルなことを呟いてプロップスを集め、人気者になりたいという願望をあたかも始めから抱いていたかのような心持ちになり、次第にその願望と実際のギャップに心がもやもやしてくるというのがお決まりのパターンだ。

モテたことを人から自慢されるとなんだか悔しくなるのと似た話だといえよう。誰かの浮ついた話を聞いているうちに、はじめから自分もモテたいという願望があったかのような錯覚に陥るが、果たして実際そうなのか。なにかの本でこんなジョークを読んだ記憶がある。男が太平洋上で飛行機の墜落事故に遭い無人島に漂着する。無人島にはなんとあのマドンナも漂着していた。二人は男女の仲になるが、男はマドンナにあることを懇願する。それはマドンナに男装してもらうことだった。困惑しつつも男の願いを受け入れたマドンナに彼はこんなことを言った。「聞いてくれ!俺はマドンナと寝たことがあるんだ!」

欲望の三角形ではないが、我々は他人が欲するものを欲してしまうのだ。けれども、自分の欲望が他人の欲望に振り回されていると考えるとなんだか気持ちが悪い。有名人とのツーショットをInstagramにアップしたり、様々な女性と関係を持ち、そのことを男友達に自慢したり、インフルエンサーから好意的な評価を受けたりしたいのだろうか、自分という人間は。どこまで自分の欲望でどこから他人の欲望なのか。その境界をはっきりさせようという企てはきっと徒労に終わるであろう。そんなものを考えたって答えがでるわけがない。でるわけがないのだから、こちらで好き勝手に言い張ったってなんの問題もなかろう。

非リアや非モテという言葉がある。生において、リア充であること、モテることのプライオリティが決して高いとはいえない人間であっても、そのようにカテゴライズされてしまうことがある。我々は、非リア、非モテという立場を受け入れ、そのうえで様々な創意工夫をし、それなりに楽しい生活を追求しがちなのだが、これではただの良いカモだ。参加者が多ければ多いほど勝者の取り分は多くなるから、そのゲームにおいてより多く得をしたいと考える者は、表立って強制はしないものの、我々が知らず識らずのうちにそのゲームに参加するように差し向ける。これはリボ払いが初期設定になっているクレジットカードのようなもので、非常に質が悪い。

我々が生きていくうえで、リア充であること、モテることなど自分には一切関係の事柄として無視したって何も問題ないのだから、そんなゲームには参加しないという手段だってある。はなから参加していないのだから、勝ちも負けも関係がない。それは不戦敗でもなんでもない。「本当はモテたいんでしょ?」などと尋ねてくる輩がいれば、「あなたがそうだと思うんならそうなんじゃないんですかぁ?」と返せば良い。とてつもなく大きな声で。

元々著作物などを通じてリスペクトしていた人物が、人気者たちの輪に入ることができず、SNSで人気者たちにしつこく言いがかりをつけて自らの評判を落としている様を見ると明日は我が身ではないかと心配になる。チヤホヤされたいのならチヤホヤしてもらえるようにチャームを振りまけば良いのだがそれができない。自分が参加していない飲み会で誰も自分のことを話題にしなかったことについて憤慨するようなもので傍から見れば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないのだが、そういう痛々しい大人の痛々しい姿を目の当たりにすると他人事とは思えず、なんとなく憐れんでしまう。『ボージャック・ホースマン』だとか『ロシアン・ドール』、最近の例だと『アンダン』のような、憎まれ口ばかり叩いて人から愛想を尽かれてしまう主人公たちに感情移入してしまうのに近い感覚といえようか。

YouTuberなんてさらりと「良かったらチャンネル登録と高評価、お願いしますー」と言うからなんて爽やかなんだろうと思う。欲望のいなし方がスマートだ。彼らがフレッシュなレモンだとするとこちらは熟れ過ぎてドロドロになった柿だと言える。もはや形をなしていない。周りの液状化した柿と混ざり合い、一部は容器のダンボールに吸われてしまった。今更どうすることもできない。