悲しき飲食店 / 100%どうでもいい人宣言

今年の6月に30を迎えるのだけど、加齢とともに段々と堪え性がなくなっている。我慢ができない。とは言っても、子どもの頃に比べたら、それはもちろん現在のほうが堪え性はあるだろう。しかし、これから子どもの頃のような性格に回帰していくという予感がある。今後はより一層堪え性がなくなり、不快なもの・ことに対してすぐにグズるようになってしまうかもしれない。ただ、しょうもないことにはいつまでも付き合っていられないと考えるようになり、昔よりも時間を大切にするようになったから良い面がないわけではない。人からケチだと思われる可能性もあるが。

ある日曜の夕方、カタヤキソバが食べたくなり近所の日高屋に入ったところ、なかなか注文を取りに来てくれなかったので帰りますと伝えて店を出た。そこまで混んでいたわけではなかったが、厨房の様子から察するに店を回せていないようだった。以前、同じような状況でカタヤキソバを注文した際に、出てきたのが餡の水分を思いっきり吸いこんだヤワヤキソバのようなものだったことがあり、同じ轍は踏むまいと注文の前に店を出ることにしたのだ。

このような場合、店員に怒りが湧くというより物事が思い通りに行かないことへ苛々する。苛々はすぐに萎れて失望を経てやがて憂鬱へと変わる。本当にやりきれない。自分にとって食事のプライオリティは決して高くはないと言えどもこのような状況はなるべく避けたいところである。

ある日松屋に入ったときのこと。50代後半ぐらいのオッサンがテーブル席に座り、隣で食事をしていたスーツ姿の30がらみの男性に向けて荷物を反対側に移すように命じた。オッサンがぶっきらぼうな言い方をしたためか、スーツの男性は頭に来たらしく、「うるせーな、クソが!ゴミクズみたいな格好しやがって」などと言い返し、オッサンは少々たじろぎながらも「なんだこの野郎」などと言って応戦。店内には緊張が走ったが、店員が「大丈夫ですか」と声をかけたため、その場は何となく収まったように見えた。しかし、このまますんなり終わるとは到底思えなかった。

やはりスーツの男性が帰り際にオッサンを軽く小突いたか何かしたようで、オッサンはスーツの男性を蹴り返した。スーツの男性は興奮し、「何すんだよクソが!」などと叫びながら座っているオッサンを踏みつけるようにして蹴りを入れる。オッサンは「オマエが蹴ってきたんじゃねぇか!」と言って立ち上がった。2、3発蹴りの応酬があったところで店員が止めに入った。

そのときの私はというと、蹴り合いが行われているすぐ横で食事をしていたため、とばっちりを喰らわないよう食器を脇のほうへ静かに寄せていた。この動作のなんともいえない滑稽さと凡庸さ。喧嘩を目の当たりにした人が見せる無防備で魚のように間抜けな顔を自分もしていたと思う。

スーツの男性は店員に押さえられると、顔を真っ赤にさせて身体をぷるぷると震わせながら、もう出るから大丈夫ですと店員に伝えた。オッサンが席に戻るとスーツの男性は素直に帰るような素振りを見せておいて、オッサンのテーブルに蹴りを一発見舞って店から去っていった。味噌汁まみれになるオッサン。謝罪する店員。すぐに新しいものに取り替えますとのことだ。店員は何も悪くない。まったくもって気の毒なことである。オッサンは気まずそうに「いや、荷物が邪魔だったからさ、あっちに置けって言っただけなんだけどね」と店員に話していた。

「人生はチョコレートの箱のようなもの。 開けてみるまでわからない」

これはある映画の有名な台詞。ところで、この言い回しが全くピンと来ない原因は日米の文化の違いにあるのだろうか。サム・ライミが監督したスパイダーマンの二作目に、アルフレッド・モリーナが発明品のお披露目会でこんなジョークを言う場面がある。

「この中に輪ゴムで束ねた札束を落とし方はいませんか?輪ゴムが落ちていました」

このジョークが今ひとつピンと来ないのと同様に「人生はチョコレートの箱のようなもの。 開けてみるまでわからない」という台詞もわかったようなわからないようなところがある。

それはさておき、この台詞に倣うなら以下のようにも言えるだろう。「飲食店はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまでわからない」と。いや、わざわざチョコレートの箱に例えるという面倒などする必要はなかった。つまり何が言いたいかというと、実際に入ってみるまでその店の空気ないし状況を掴むことはできないということである。我々は席についてしばらくしてから客の苛立ちと店員の慌てぶりに初めて気づく。当たり前の話だが、店の外からその気配を感じ取る能力さえあれば、入店することもなく、食事の際に嫌な気持ちにならなくて済む。しかし、そんなことはどだい無理な話。行き当たりばったりやっていく他ない。たまにハズレクジを引くこともあるが、間が悪かったと思ってやり過ごすしかない。

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こういうことは書かないほうが無難だと理解しつつも、涼しい顔を繕っているけど実際は腸が煮えくり返っており身体中を恨みつらみが渦巻いているのが彼という人物だなんて知ったようなことを言われたりするのも癪なのでいっそのこと書いてしまおう。もう何年も前の話だけど、あるライブの後、自分の出番が終わってフロアでウロウロしていたら、「わたしトリプルファイヤー好きなんですよ」という言葉が耳に飛び込んできた。その人は私の知人と話しているところで、知人が「そうなの?そこにトリプルファイヤーいるよ。鳥居くーん!」と言ったところ「いや、私吉田派なんでえ」と高らかに宣言。確かに自分は人間として最低のステージにいるため --いや、人間と同じステージだなんて痴がましい、俺は犬畜生だ!そう、犬畜生ないしワンコロだ!いや、ワンコロというよりコロコロクリーナーに貼っ付いたポテトチップスの食べかすだ!畜生!なんてことだ!実際はそれ以下の存在だ!-- 人様からこのような仕打ちを受けるのも已む無し、と納得しようとしたところでなかなか上手くはいかない。なぜなら人には自尊心があるから。

しかし、仮に自分がパフュームファンで、さらにのっち派だったとして、人からかしゆかを紹介されたときにわざわざ「いやでもボクのっち派なんで!」とは言わないだろう。もちろん相手があーちゃんだったとしてもそんなことは決して言わない。さらに、小木に向かって「えー、矢作は?矢作来てないの?矢作来てなかったら意味なくない?」とも言わないし、ジョン・レノンに向かって「ぼくブラックバードすごい好きなんですよ!めっちゃいい曲ですよね!ついでに歌ってくれたら嬉しいなぁ!」とも言わない。その辺の山に向かって「なーんだ!富士山じゃないのかぁ」なんてことは言わないし、日本海に向かって「これが太平洋だったらどんなに良かったことか!」とも言わない。なぜなら、人は惻隠の情を持つべきだと考えるからだ。昔から一寸の虫にも五分の魂と言うではないか。さらに人は自らの分を弁えなければならないとも考えている。

しかし、分を弁えるということを云々しすぎると吉田派の人物を遠回しに身の程知らずと言っていると取られかねないし、そういうオマエも相当尊大な野郎だなという話になってしまい、それはそれで不本意であるが、構わず続けることにしよう。

自らの分を弁えるべきというのであれば、やはり食べかす以下という己の身分に鑑みて、人から何と言われようと、いくらぞんざいに扱われようと、歯を食いしばった耐え忍ばなくてはいけないのかもしれないが、自分が食べかす以下かどうかなんてせめて自分で決めさせてくれないだろうか。他人を捕まえてその人が食べかす以下かどうかを決められると考えるのは奢りではないのか。そういったことは他人の関知する領域ではないはずだろう。なぜいちいち「おまえは食べかす以下の人間だ」と指摘し、そのことを本人に認めさせようとするのか。そんなのは支配欲に取り憑かれた人間の所業だろう。いや、誰もそこまで言ってないよという指摘があればごもっともですねと返す他ない。それに食べかすと言い出したのは自分の方だ。

「コンプレックスは笑いに昇華しろ。そして他人にいじらせろ」といった意見もあるが、なんとなく「下の口は正直だな」という言葉に通じるいやらしさを感じてしまって首肯できない。また、かつての列強のような傲慢さを感じないでもない。オッサン的マチズモの一種ではなかろうか。

しかし、意地になってノートの隅に”Torii rules!”と落書きし、人からの指摘に聞く耳を待たず心を閉ざしてはいけないとも思う。「オフィスのドアは開けたままにしておく。話したいことがあったらいつでも気軽に訪ねて来てくれ。」これが私のモットーである。もっともこれは嘘のモットーではあるが、嘘であることを差し引いたとしても「あんたって食べかす以下だよね」という前提で話を進めようとする人物にも胸襟を開いていかねばなるまいとは思っている。

思い返してみると、テレビを見ているときのテム・レイのように興味の対象がハッキリとしている人と遭遇することも度々あった。新宿のタワレコでレコ発を行った際、急遽特典の手渡し兼握手会をやることになったのだが、その列の中にあからさまに「三下は引っ込んでな」という態度を取る人がいた。もう少し具体的に言うと、その人は「眼中にない」という表現を比喩ではなく目線で表現したということだ。「脇目もふらず」と言い換えることもできよう。これにはさすがに文字通り手も足も出ず、自分も主役の一人であると言っても過言ではないイベントにもかかわらずタワレコの明るい店内でただの木偶の坊と化すことがあり、いかに自分が無力かつ無能かということを存分に思い知らされた。そこにはある種のマゾヒスティックな快感がなかったとは言い切れないのだが、やはり自分が可愛いと思う心が邪魔をして快楽に浸りきれないところがあった。その人のややパフォーマンスじみた大仰な振る舞いも少し引っかかった。

たしかに「選ばれてないことの安堵一つわれにあり」といった思いもないわけではない。「どうでも良い人」という自己認識が、布団の冷たい部分に足が触れたときのような心地良さをもたらすときもある。ただの負け犬根性だと言ってしまえばそれまでだが。しかし、こちらとしても相手が人間である以上、神ならまだしもおまえさんが選ぶの?とどこかで思ってしまう。何だか腑に落ちない。さらに、自分が選ぶ立場にあることをそこまで自明としちゃっていいわけ?とも感じてしまう。けれども、ごちゃごちゃ言ったところでどうにもならない。もはや触れるべきではない領域に片足を突っ込んでしまっているのでこのへんで止めておこう。相手がどうあれ結局はこちら側の解釈の問題でしかない。この件に関しては行って来いで感情的には損益なしだったことが唯一の救いだったといえよう。

また、敢えてどことは言わないが、都でも府でも県でもないところでライブをした日のこと。打ち上げの席で、目の前にいる女子がずっと某SSWのOhさんに向かってミで始まってメで終わる三文字のバンド(※ミツメのこと)の各メンバーの性格ついて根掘り葉掘り質問していて、そんなのってありぃ!?と思ったことがある。

冷静になって考えてみるまでもなく、これらの経験がある程度は仕方がないものだということは重々承知している。生きてりゃそんなこともあるよね、というものである。決して全員が桃太郎役の学芸会や全員が一等賞の徒競走みたいなものが横行する世界を望んでいるわけではない。「飢えて植えた上には上がいる 認って慕った下には下がいる」なんて歌もある。「選ぶこと/選ばないこと」及び「選ばれること/選ばれないこと」がジャングルの掟のように苛烈なものであるとは頭では理解しているつもりだ。ただ、ジュースをこぼしてしまった後の机のようにベトベトしたあの惨めったらしい気分が問題なのだ。いや、大して惨めったらしくもないか。惨め度でいうと、スミスの”Heaven Knows I’m Miserable Now”ぐらいのやや軽快な感じか。あーた、惨めさにちょっと酔ってるね、というような。では何が一番の問題なのだろう。

他人に迷惑をかけないように心掛けて大人しく生きているのだから最低限のリスペクトぐらいよこせという傲慢さが一番の問題ではないのか。飲みの席で初対面の子から掛けられた第一声が「おめぇじゃねぇよ!」という冷たい一言で、家に帰ってからもずっとモヤモヤが消えずにいたことがあったが、それも最低限のリスペクト問題に絡んでくるような気がする。

理想は会う人会う人に「あなたって本当にどうでも良くない人物ですね!一角ですよ、ヒトカド!」などと言われることであろうが、寝ているだけで毎日銀行口座に10万円振り込まれたらいいよなぁといった妄想並に馬鹿げている。

人間誰しも生きてるだけでひとまずのリスペクトは受けられると考える自分が甘いのだろうか。甘いのだろう。三十路が近づこうと心根はお子ちゃまのままだ。リスペクトやプロップスは自ら勝ち取っていかねばならないものなのだということに皆はいつ気がついたのか。

さらに、自分が誰に対してもきちんと敬意をもって接しているのかと問われれば、自信を持ってイエスと答えることはできない。例えば5人以上で行動している学生(牛丼屋やラーメン屋、または立ち飲み屋などカウンター席がメインで二人がけのテーブルが少し置いてあるような店に5人以上で入店しようとする学生。ものすごく失礼な言い方だけどこういった学生たちの行動を「馬鹿の液状化現象」と呼ばせてもらうことにしよう)に対して敬意を払えと言われても「ちなみにそれって時給発生したりします?」と答えてしまいそうだ。そのような人物にリスペクトを送る人などいるものか。”And, in the end, the love you take is equal to the love you make”という歌詞が思い出される。

プライドに関わる利害を絶えず調整し続けることこそが社会で生きるということなのかもしれない。なんて言うと少し大げさかもしれないが。「○○のくせに無駄にプライドが高い」なんて言い方をする人もいるが、プライドがそれ相応だったことなど一度だってあるものか。分を弁えるとは自分を低めに見積もることではないだろう。かといって卑屈さと尊大さの宙づりに耐えきれずに居直ってしまえばただのオッサンになってしまうことに留意せねばなるまい。オッサン的感性こそ唾棄すべきものだ。オッサンとは居直りの権化であり、ダンディズムの対極といえる存在だ。同じ歳の人物のうち、もっともヒップな存在と思われるケンドリック・ラマーも”Be humble”と言っている。しかし、ときにはプライドのためにストラグルしなければいけないこともある。例えそれが負け戦だとわかっていようと。ブルージーな体験もなかなか味わい深いところがあって決して悪いものではない。

などと言いつつも、他人から与えられた「どうでも良い人」という認識を背負い込んで、それでも健気にちまちま努力したり、そんな自分をいじらしく思ったりすることははっきり言って馬鹿馬鹿しいと感じている。どうでも良さとどうでも良くなさの濃淡の中で、何か自分なりの色を出そうとするような小賢しさを我々は超えていくべきではないのか。他人と比べたときに相対的に冴えているかどうかは何の問題にもならない。惨めったらしい日々の営みやいじましい自尊心とは無関係な、絶対的な意味での「どうでも良い人」として新たな宇宙の発生のようなものに立ち会うことが理想といえば理想。