お役立ちライフハック情報の墓場

先ごろ、某水色系SNSにおいて音楽ファンを中心に「私を構成する9枚」というハッシュタグとともに9枚のアルバムジャケットの画像を投稿することがにわかに流行した。アルバムジャケットが複数枚並べられているとそれだけでもう嬉しくなってしまう単純な人間(ディスクガイド大好き!)なので、人の投稿を眺めて楽しんでいた。

特に、自分がリスペクトの念を抱く、音楽活動に携わっていてる人物によるチョイスを見ると、なんだかしみじみとしてしまう。定食屋のおっちゃんが店じまいした後の薄暗い店内で一人で食事しているのを垣間見てしまったときの、あのなんともいえない気持ちが湧いてくる。そんな風に思われるのが癪だと感じる方がいたのならすみません!でも、どうしても「音楽は個人に属するもの」という風にしか思えない自分からしてみると、その人がこれまでに一人で音楽に接してきた時間がフレームに収まって目の前に現れてきたような気がして、くらくらしつつもやはり目を閉じてしみじみと首を縦に振りたくなってまう。

しばらくして「なかったことにしてるけどかなり聴き込んだ9枚」(うろ覚え)というハッシュタグも登場した。このハッシュタグが「本当に音楽が好きな人はむしろこっちを発表するんだろうな」(うろ覚え)というコメントとともに紹介されていて、「本当に音楽が好きな人」という文言に、「?」と思いつつ、タグ付けされた投稿を見てみると、メタルやメロコア、ミクスチャー系、20年ぐらい前のJ-POP、アイドルなどの「いかにも」なジャンルのアルバムが選ばれていた。

これは印象でしかないが、「なかったことにしてるけど〜」の方は「正直さ」が指標になっており、「正直さ」を支えているものは「恥ずかしさ」であるように見え、さらにその「恥ずかしさ」はある程度誰もが共感できるものとして設定されているようだった。また、「ダサさ」と「無為自然」が等号で結ばれることを自明とするようなところもあった。

共感がベースになっている以上当然社会的にならざるを得ない。それに茶々を入れても仕方がないと思うものの、「正直さ」というものは結局他人からの評価でしかないという身も蓋もない事実をまざまざと見せつけられた気がして、ちょっと気が遠くなってしまった。

やはり気になってしまうのは「本当に音楽が好きな人」という言い方。そもそもの話、ものを選ぶということが作為でしかないのだから、その時点でフィクションという要素が含まれるのは当然であって、殊更「本当」だったり「正直さ」、「誠実さ」を気にしなくていけいないのはなぜ?と疑問に感じてしまう。「全ては幻想である!」とまでは言わないにしても(幻想だと思いたけど。ものぐさなので)。むしろ、フィクションだからこそ「真実っぽさ」を押し出していかなくてはいけないのかもしれないが。

こういうのは十代のときの「他人からどう思われるか」という思考がいかに深い爪痕を残すのかという話でもある気がする。最近は他人から「まーた馬鹿が気取ってやんの」と思われてもその通りだし別になんでも良いやと感じるようになってきた。実際に言われたら傷つくし、腹も立つけど…

10年ぐらい前に某サブカル誌を読んでいたら、ある若手ロック・ミュージシャン二人の対談が載っており、片方の「別にマニアの自意識を満たすためにやってるわけじゃない」という発言が見出しになっていて、「イヤなこと言うよなあ」と思った。イヤさがクリティカルすぎて前後の文脈は忘れてしまった。ここで大切なのは見出しを憎んで人を憎まずという気持ち。

この「別にマニアの自意識を満たすためにやってるわけじゃない」という一言はやがてヘルペスのような存在と化し、普段は忘れていても免疫が落ちたりすると再発して思い出してしまうようになった。その度に「ああ、イヤだ、イヤだ」と感じてしまう。特にこの5年間は症状がひどい。言葉の一人歩きが過ぎてこの5年間に感じたイヤさの象徴みたくなってきた。むしろこのイヤさこそが活動の指針を決めているようなところすらある。もはや金言。

「マニアの自意識」という言葉の実体の伴わなさが過剰な意味付けを引き寄せているような気がする。

「マニア」という単語は上から目線の偉そうな奴ぐらいの意味でしかなく(「スノッブ」でも「権威主義」でも代入可能。または「オタク」でも可。「外人」でも「金持ち」でもなんでもOK。ここでは評論家のことを言っているのだろう)、手頃な仮想敵のステレオタイプとして挙げられているだけのような気がするので(子供にとっての人参、ピーマン、グリーンピースのような存在)、その安易さに辟易しながらも拘泥せずにここでは捨て置くとして、問題は自意識のほう。

自意識というものは他人の目にしか映らないということになっており、おまえが何を言っても無駄とでも言いたげな様子で立ちはだかる感じがして恐ろしい。被害妄想の気が強いので、自意識という言葉を聞いただけで冤罪で捕まった気がしてくる。さらに恐ろしいのは、「冤罪とか言っちゃってこのイノセント気取りが。おまえに罪の意識はないのか」という形で思考が続いていくところ。泥沼化は必至。このドミノ倒しはどこかで原罪みたいなものを設定して手打ちにしないことには延々続いていくだろう。そして、原罪を一度背負ってしまったら「だったらおまえも悔い改めろよ」という形で視線を他人にシフトして行かざるを得ず、これもまたある種の地獄である。(macが目の敵にされる主な原因は社名とロゴのせい)

単におまえの被害妄想がひどいだけだろとおっしゃる方もいるかもしれませんが。いや、でも、自意識という言葉が人の口から出てくるときに相手の他の可能性を探るということはまずないから、問答無用な感じがして本当に嫌な言葉だよな、と思う。まさにノー・マーシー。逆に言えば説得力がある言葉ということかもしれないが。少なくともいちいち付き合うのが馬鹿馬鹿しい言葉の一つであるとは言える。

だいたい、やってるほうが「ダサ坊お断り!」と思っていようが「一人でも多くの方に聴いてもらいたいです!」と思っていようが、開かれていようが、閉じていようが、こっちは好きで聴いてんだからそんなことは知ったこっちゃねぇよ!タウン&カントリーじゃあるまいし!としか思わない。

あと関係ないけど、「ポップスの良心」「アメリカン・ロックの良心」といった表現の押し付けがましさも、「んー」という感じ。よっぽど悪を懲らしめたいのだろうな!しかも他人のふんどしで!という感じ。でも意外と商品ポップなどで軽い感じで使われがち。「ポップスの悪意」「アメリカン・ロックの悪心」とかのほうが断然聴いてみたい!と思うけど。

なんかそういうポリティカルなのかどうかわからないけれども「正直さ」「誠実さ」といったコレクトネスの下に、あり方を一本化していくのはどうなのと思う。支流、傍流を無くして全部本流にもっていくというような。水脈が至るところにあってたまに繋がったりするというのが豊かさというものなのでは。結局ナイアガラの受け売り男(エー、エー、毒消しゃいらんかね♪)になってしまうけど、「音楽は個人に属するもの」で、趣味のものであるとしか考えられないので、配慮の正しさ、合意の得られやすさ、流通のしやすさみたいなところで質を測ろうとすることには違和感を覚える。電車の中で化粧するなとか、ご飯を残すやつが許せないといった話と同じディメンションで語られがちだが、音楽がただの日本語でない限りにおいて、音楽には音楽なりの自律性ないし自発性だってあるはず、きっと。

やっぱり音楽はどこか舐められているようなところがあって、文芸やお笑い、ファッションなど他ジャンルのさらにサブジャンルみたいな扱いをよく受けがちである。ミュージシャンの成功とは、小説家として名声を得ることだとか、マルチタレントないしサブカル文化人として様々なメディアで飄々と活躍することである、というふうに考える人は少なくないだろう。「あがり」をそういうところに設定するのはその人の勝手だから別に知ったこっちゃない。のらりくらりやっていたらいつかピエール瀧みたいになれると思っているような人に対しては一生やってなさいよ、と思うだけだ。だって継続は力なりと言うじゃない。

音楽活動に従事する者に、音楽に比べてお笑いがいかに偉いのかということを語られるということが、これまでに何度かあって、その度にガックリとさせられてきた。彼らには芸人さんに対する尊敬とか羨望のまなざしがあって、俺のやってることなんかに比べたら、お笑いのほうが世のため人のためになっている、というようなことが言いたかったのだろうけれど、だからといって音楽を貶めないでも良いじゃないか、と思う。もっと言えば、それはおまえ自身の不甲斐なさにすぎないのではないかと尋ねてみたい欲にかられもするが、実際に口にするのはさすがに憚られる。

従事している人にしたって思い入れがその程度なのだから、況や一般の人をや。まあ、そんなことを言っているのも一部の人ですけどね。とにかく、グッと来る友情エピソードだとか「ロックの名言」だとかそういう話に終始して「音楽そのもの」が語られないっていう状況はとても残念だ。そんなものはただの「日本語」でしかないと思うのだが。「日本語以外のものがあった!」という驚きがあったからこそ、音楽にここまでのめり込んでしまったようなところがある。「ロックの名言」なんぞと同じ地平で扱われることを苦々しく思ってしまう。

なにはともあれ、「共感できないもの・よくわからないもの」というか「自分のボキャブラリーの範囲内では扱いきれないもの」に対する態度は益々厳しく、というか軽く、ぞんざいになっていくことだろう。インターネットの流通を支える輸送手段がルサンチマンである限り。だがしかし所詮こんなのはご近所トラブルの類でしかなく、巷で「コップの中の嵐」と言われるもので、スケール的にこんがらがったイヤホンのケーブルを解く程度の話に過ぎないのですが。

などと言ってみてもなんとなく口の中がほろ苦い。なぜこのようにエレガントさに欠ける繰り言をブログに書かなくてはいけないのだろうか。シティ感ゼロ。ほんとうにザ・インターネットという感じ。こんなことをいちいち書く必要のない人物の身のこなしをやはり想像しなくてはいけない。

ところでレンタルビデオ屋行くと「ザ・インターネット」というタイトルの映画があって見るたびにどきっとする。「ザ・エージェント」もあるし、きっとそういう事なんだろう(奥田民生調)。

 

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