トリリンの『ハピネス廃棄物最終処分場』

もう何年も前のことだが、ライブハウスで面識のない人に —別にこちらから何か話しかけたわけでもないのだが— 行きがかりで「あたし吉田派なんでぇ」と通告されたことを折に触れては思い出す。と書き出しておいて何だが、余計なことを書いても何かと面倒なのでこの話ついてはやっぱり止しておこう。そんなに大した話でもないし、どうでも良いといえばどうでも良いし、すべてが、森羅万象が。

過日。『シング・ストリート 未来へのうた』鑑賞。『はじまりのうた』がとても良い映画だったので期待して観た。ものすごく泣かされたけど、やっぱり『はじまりのうた』のほうが好き。『シング・ストリート』で一番良かったのは夫婦喧嘩が聞こえていないふりをして兄弟3人がレコードに合わせて踊るシーン。こういうところがジョン・カーニー監督の良いところじゃないのか。

過日。『ヤング・アダルト・ニューヨーク』鑑賞。ノア・バームバックは日本では不遇の扱いをされているような気がする。ベン・スティラーとグレダ・カーウィグ主演の”Greenberg”はDVDスルーどころか配信スルー。邦題は『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』。amazonビデオで配信していたので鑑賞。

『フランシス・ハ』は同じ年頃の女性が主人公なので身につまされて鳩尾がキュウっとなる映画だけども、良い映画だった。『ヤング・アダルト・ニューヨーク』はもっとラフに笑えた。ベン・スティラーは被害者意識や自己憐憫が強い役どころやらせたらもう本当に最高。被害者意識や自己憐憫が強い人におすすめの映画。アドム・ドライバーはカイロ・レンと同様、役者っぷりを存分に発揮。

それにしても、『イカとクジラ』、『マーゴット・ウェディング』は観てて本当に嫌な気持ちになる映画だったけれど、それに比べるとノア・バームバックも大分ウォームに。と言っても悪辣なジョークは健在。

スタッフロールで流れてきた曲がとても良くて、なんだろうと思い、クレジットを凝視していたらポールの曲だと判明。”Let ‘Em In”という曲。声と曲調でわかるだろという話だが、最初にエミット・ローズの曲かなと思ってしまったのだ。

過日。『シン・ゴジラ』鑑賞。大学の先輩、阿部翔平さんが出ていて驚いた!

過日。『DOPE/ドープ!!』鑑賞。ポスターなどから音楽映画かなと思っていたけど、長谷川町蔵・山崎まどかのコンビがいうところのアメリカ学園映画だった。ところでアメリカ学園映画とか青春映画って本国ではなんと呼ばれているのだろうと思って調べてみると、どうも”Coming-of-age story”と呼ばれていることがわかった。

『DOPE』の主人公は、黒人のステレオタイプからはみ出すキャラクターで、勉強ができて白人のようにスケボーを嗜む。90年代のヒップホップのオタク。ただし母子家庭で、住んでいるのもギャングたちがたむろする治安の悪い地域だ。言わば”M.A.A.D City”の”Good Kid”。

主人公の人物造形はこの映画のエグゼクティブ・プロデュサーであり、劇中歌を提供したファレル・ウィリアムスの生い立ちを参考にしているようだ。主人公たちが組んでいるバンドは「オレオ」という名前で、「オレオ」とは白人のような趣味を持つ黒人を指したスラングだ。ファレルも子供の頃は白人の仲間とつるんでいたためにオレオと揶揄されていたとのこと。

この映画を観て改めてネプチューンズとN*E*R*Dが与えたインパクトの強さがなんとなくわかったような気がした。ネプチューンズがいて、現在タイラー・ザ・クリエイターとかジ・インターネットがいるということを再確認。音楽的な影響だけでなくて、在り方として。

劇中で使用されてる曲は主に90年代のヒップホップで、選曲も良かったし、使われ方もタモリ倶楽部のBGMみたいで洒落が利いていた。

あと、主人公の友達のレズビアン役の女の子が可愛かった。それと、ヴィンス・ステイプルズがエイサップ・ロッキーの仲間役でちらっと出ていた。

はなしかわって(映画は未見)。

この間、ぼんやりと「やっぱり名盤を作りたいよなぁ」なんて考えていたら、「茶盤」という言葉がふと頭を過ぎって体中から力が抜けてしまった。このような脳みその構造には我ながら本当にうんざりする。

何かに取り組もうとするときに付随してくる根源的な馬鹿らしさを払拭することにものすごく体力を使っている気がする。考えれば考えるほどに何がしたくてやっているのかわからなくなる。それ故に「だからもうやらないんだよ!」の精神に結びつきもする。好きで始めたようなことだが、もはや社会主義的な労働としか思えなくなってしまった。

そう考えてしまうのは結果だとか反応だとかの外的要因に精神の在り方が左右されているからだろう。意識していないつもりでも心のどこかで見返りを求めてしまう。それが人情というものなのかもしれないし、または気の弱さと言えるかもしれない。それでもやはり邪念を振り払って物事を推し進めるのは難しい。なぜなら生活等々があるから。この間まで旧ソ連のプロパガンダのポスターを眺めては自虐的に己を奮い立たせていたが虚しくなるだけなのでもう止めた。

音楽活動は、例えば遠足のようにそれ自体が目的であるものではない。もはや誰もそんな風には考えないのかもしれないが、音楽活動に携わることの主軸が未だに音楽にあるのだとすれば、それをおざなりにしてただそれらしいだけの活動に感けることにはやはり心苦しさがある。調子の良いことばかり口にして、足元がおろそかになってしまうようではどうしようもない。いくら体裁良く活動ができたところで、内容が充実してなければモチベーションは保っていられない。

しかしいくら個人がそんなことを考えようが、人の流れというのはそんなことを端から問題にしていないという面もある。通勤ラッシュ時の人がごった返しになった乗り換え口を移動するときのように人の流れに身を任す以外にどうすることもできない。立ち止まったり流れに逆らうことは難しい。そこでは全てが液状化し、どんな懊悩もとりこし苦労と化す。疲労だけが蓄積されていく。

だから、もうそういうものは別として、一人で勝手に「趣味に還る」ということをやっていけば良い、と考えた。もちろん「やっぱり名盤作りたいよなあ」とか「自分が好きだと思える音楽を完成させたいよなあ」という意志はあるが、その一方で、子供の頃に誰に頼まれたわけでもないのまん丸でピカピカの泥だんごを作ることにひたすら没入したように一人遊びがもたらす気持ちの高まりを迂闊に扱わないようにしなくては、とも思う。と言ってもそんな遊びをしたことはないが。現状に即して言えば、気になったことをとことん調べたり、お店にCDを買いに言ったり、好きな曲をコピーしたりといったことをアブソリュートエゴ行為として気ままに楽しんでいきたいというただそれだけの話。

しかし、それはそれ、これはこれ、である。取り組むべきことにはきちんと取り組まなくてはいけない。当然、妥協や手抜きに加担したくはない。いくら妥協したり手を抜くことに心血を注いだところで、「ああ!あのとき妥協したり手抜きして本当に良かった!」という風に思うことは絶対にない。むしろ、心の底からこれで良かったんだと思えないのであれば、妥協や手抜きするだけ無駄だ。やはり妥協や手抜きをするのであれば、「出来には全く満足できていないけど、手抜きや妥協の結果、とても楽できたので良かったと思います!」ぐらい言わなきゃウソだね、と思う。「音で楽をすると書いて音楽」と言うぐらいだし。

妥協や手抜きから距離を置きたい、関わり合いを持ちたくないなどと言ってみても、実際に何かをするということはやはりとても大変なことだ。信念とでもいうべきものに基いてより真摯に物事に取り組もうとすればするほど摩擦係数も大きくなる。精神はガリガリと削られて摩耗していく。すこぶる当然だと思うことをやっているだけなのに「ストイックな職人気質」なんて見当違いのことを言われる。そこまでして何かをするくらいなら「がんばります」とでも嘯いたうえで、何もせずにだらだらと過ごしていたほうが心身にとっても良いことではないのか。周囲も「もう、おまえってやつは。本当に仕方ないんだから」などと言いながら満更でもないような様子で接してくれることだろう。それこそ低値安定というものだ。下手に波風を立てるぐらいならば問題を棚上げにして和気藹々と現状維持に努めるのもひとつの手であろう。

いや、もういい加減そんな生ぬるい態度は唾棄すべきである。そんな下らないものに対しては体が干からびて朽ち果てようとも唾を吐きかけてやらねばなるまい。

はなしかわって(映画は未見)。

近頃はドラムのことが気になって気になって仕方がなく、インターネットを使って色々と調べ物をしていたらおもしろいコラムを見つけて、一気に全部読んでしまった。

三原重夫のビギナーズ・ドラム・レッスン

三原重夫さんはローザ・ルクセンブルグ(学生時代にコピーバンドをやったことも…)のドラマーとしてキャリアをスタートされた方で、現在はドラム・チューナーやエンジニアとしても活動されているとのこと。

不遜な言い方ではあるがまさに我が意を得たりといった感動があったし、やたらと難しく考えてしまう節があったところをもっとシンプルに考えろという示唆も与えてくれた。グルーヴだのタイム感だの言ったところで、4分の4拍子がきちんと演奏できていなかったらどうにもならない。4拍子を手拍子で合わせるところから始めるつもりで合奏することに取り組んでいきたい所存であります。

 

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