イヤな思い出スワイプしちゃお

地元では毎年10月の中旬になると地区ごとのお祭りが開かれる。私の地区では、厄年の男たちが立派な山車を引いて町内を回ったり、神社の境内に設営された櫓から景品引換券が同封された袋入りの餅を投げたりする。

小三のときだったと思うが小雨が降る中餅投げが行われたことがあった。餅投げは通常一度地面に落ちた餅を拾うものだから地面が泥っぽくなっている場合は手が泥だらけになる。その日も老若男女が入り乱れ泥に塗れて餅を拾っていた。

餅投げが終わり、櫓の周りから人が捌けていく中、その場に突っ立っていたら二十がらみの面識のない男に突然疲れたねと声をかけられた。男は涼しい顔をして両手についた泥を私の着ていたTシャツで拭うと、何事もなかったかのように去っていった。

突然の出来事にしばし呆然としてしまったが、やや間を置いて段々と人間が生れながらにして持つ悪意にじわじわと侵食されていくような心持ちになり気が滅入った。

中二の夏休み、友達と古本屋に行って漫画を立ち読みしようということになり、自転車で移動していたときのこと。自転車に乗った高校生と思しき男二人組が後ろから近づいてきた。自分たちの脇を通って追い抜いていくのかと思いきや、片方の男がわざとらしく「危ない危ない」と言いながら私のほうに自転車を寄せてきた。その男は同級生の兄に似ているような気もしたが確信は持てなかった。咄嗟に避けようとレンタルビデオ屋の駐車場の方にハンドルを切ったが、男はしつこく自転車を寄せてきた。サンダルを履いてむき出しになっていたくるぶしに相手のペダルが擦れて痛かったので我慢ならずブレーキを握りしめ自転車を止めた。

男はこちらを見つめて「もう、危ないなぁ」と言うと、様子を見ていた連れの男の元に戻っていった。連れの男が「どうしたの」と尋ねると、自転車を寄せてきた男は「いや、危なかったからさ」とよくわからない返事をしていた。友人と移動しているときに、咄嗟の思いつきで中学生に嫌がらせをして平然としている高校生の精神構造がまったく理解できなかった。ここでもやはり人間が生まれながらにして持つ禍々しい悪意の一端を見せつけられたような気分になった。

二年前の話。その日は明大前で人と会う用があり、新宿の京王線乗り場を歩いていたら、太ももに鈍い痛みが走った。誰かのカバンでもぶつかったのかと思い周りを見ると、顔を真っ赤にした大学生風の男がこちらを睨んでいた。男の出で立ちは茶髪でいかにも標準的な大学生といったもので特に怪しいところはなかった。何か言うのかと思いしばらく待っていたが特に何も言わないので、その場を立ち去ろうとしたら、後ろにぴったりくっついて付いてくる。立ち止まって振り返ると相手も立ち止まりこちらを見つめてくる。再び何か言うのかと思って待ってみるのだが、特に何か言うわけではない。また歩き始めるとやはり付いてくる。ホームに着いて立ち止まると相手も立ち止まりこちらを見つめている。何か言わなくてはと思ったが何と切り出して良いかわからず咄嗟に「あ」とだけ声が出た。すると相手はすすっと逃げていった。追いかけようかとも思ったが、電車が来てしまったので諦めた。彼の目的は一体何だったのか。鈍い痛みとともにもやっとしたものがいつまでも残っている。

高一の夏、友達と自転車を小一時間ほど走らせてイオンまで行き映画を観た日の帰り道。あまり車の通らない道を走っているときに黒い国産のワゴン車が後ろからやってきて行く手を妨げるように前方で停車した。なんとなく絡まれそうな予感がしたので、反対側の道に移ってやり過ごしたところ、ワゴン車はウィンドウを下ろし、こちらに向かって何かワーワー言っていた。乗っていたのは20前後のややガラの悪い男たちだった。知らんぷりして走り去った。

このようなある種の不条理に出くわすと、因果関係がわからないためにいらぬ心配をする羽目になる。あるとき自転車で斜め横断をしたときに真っ赤なデミオにクラクションを鳴らされ、ドライバーにスーパーの駐車場へ誘導され15分ほど説教されたことがあるが、こういう場合はことの因果関係がはっきりしているから必要以上に不安を感じたり落ち込んだりする必要はない。だが、先に挙げたような不条理の場合は、前後関係がはっきりしないから、思考は底なし沼に引きずり込まれることになる。最終的に自分がこの世界から受け入れられていないという事実の一端を見せつけられたかのような心持ちになってうんざりする。人智を超えた存在にコケにされているような気がしてくる。本当にやめてほしい。

とは言いつつも物事を論理的に考えられない質なので、すべてのことが不条理といえば不条理に思えてしまう。すべてが不条理であることが前提となっているから、ことの次第に何か違和感を覚えてもまあそんなこともあるよねなんて言ってやり過ごしてしまいがちだ。それで判断を誤り人に迷惑をかけることが度々ある。毎度毎度自分なりに納得できるように因果関係を誂えてみるのだが、論理の糸のほころびに気が付くのはいつももっと後のことだ。

物心がついた頃からユニークな人間でありたい、人とは異なる発想をしたいと願い続けたことの副作用なのだろうか。いや、単にめんどくさいという理由で物事を論理的に考えることを避けてきた結果がこれだ。まるで関係のないパズルのピースが複数混入したパズルをやらされている状態が続いている。お願いだから人智を超えた存在には金輪際意図のわかりにくい嫌がらせをしないでもらいたい。できることなら毎日びっくりしたりドキドキしたりせずに過ごしたい。

九死に一生を得た人が死の寸前にこれまでの記憶が走馬灯のように思い出されたなんてことを言う。もしも今際の際にこれまで述べてきたような記憶の総集編を見せられたりしたらたまったものではない。

『ソイレント・グリーン』という映画がある。ディストピア映画のクラシックだ。映画の中の世界では安楽死が合法となっており、登場人物の一人が公営の施設で安楽死を施されるシーンがある。そこでは、大きなスクリーンにかつて存在した美しい自然の映像が映し出され、さらにベートーベンの交響曲第6番「田園」が流れる中、安らかな眠りにつくことになる。

駅前などで待ち合わせしている人が相手を見つけた瞬間にぱっと表情を明るくするところを見る度につられてこちらの気持ちもなんとなく明るくなる。あの瞬間を見るのがとても好きだ。永い眠りにつく際は、自分に関する思い出や美しい自然の映像ではなく、待ち合わせをする人々が相手と出会った瞬間をとらえた映像をまとめたものを観ながら明るい気持ちで眠りにつくのが良いだろうと思っている。

 

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