蒼井優VS宮崎あおい

蒼井優好きの友人が言うには、蒼井優と宮崎あおいとの間に覇権をかけた戦いがあったらしい。もちろん彼女たちがキャットファイトを交えていたということではない。彼は蒼井優主演のドラマの受け入れられ方をみてその勝敗を判断しようとしていた。結局は彼女の負けだったらしい。それを受けて彼は「つまるところサブカルの弱さだよな」とこぼしていた。

宮崎あおいもどちらかといえば「サブカル」の範疇だろうと言う人もいるかもしれないがそうは思わない。”宮崎あおい=キムタク説”というのがある、自分の中だけで。単に両者の演技が似ているというただそれだけの話である。キムタクの演技に関して巷間で言われるクリシェはさて置くとしても、思わせぶりな仕草こそが演技であると観る者に有無を言わさず認識させてしまうカリスマ性が両者に共通するところであろう。キムタクがサブカルではないように宮崎あおいもまたサブカルではないということを思った次第だ。かと言ってヤンキーと言ってしまうのは憚られるが、この際ヤンキーと言い切ってしまおう。

またこれは別の自説だが、宮崎あおいは「シャマラン以外の映画には出演しないブライス・ダラス・ハワード」のような存在だと思っている。ブライス・ダラス・ハワードは主人公の男を袖にする利己的な人物を演じることが多いが、シャマランの映画に出ているときはイノセントな役割を演じることが多い。宮崎あおいも狡猾なカマトト役などやったら結構ハマると思うからそういう役をいっぱいやったら良いと思う。友人があるミュージシャンを「いじめっ子といじめられっ子を短いスパンで行ったり来たりする顔」と評していて、なるほど、そういう顔ってあるよなと思ったことがあった。宮崎あおいにもそのような二面性を感じるといえば感じる。

それはさておき、宮崎あおいVS蒼井優という対決があったのだとすれば、それは同時にヤンキーVSサブカルの抗争でもあったと無理矢理見立てたうえで、話を先に進めたいと思う。

ここでいうヤンキーとは特定の生活ないし文化の様式に倣って生きる人たちを云っているのではなく、性格的な傾向を指すもので、それは「マチズモ」などと言い換えることもできるし、信ずるべき価値観に基づいたコンペティティブな場に参加することを自明とする人たちのことであるともいえよう。サブカルというオルタナティブな価値観が現前化してから、その反動として、事後的に自覚が促された層というか、単にアンチとしての保守反動というか、そういうもの一般を指して便宜的にここではヤンキーと呼んでいる。「マイルド・ヤンキー」といったどうでも良い感じの死語とは全く関係がない。

ヤンキーが覇道であるとすれば、サブカルは邪道である。サブカルは現に邪なものとして扱われている。蒼井優が好きと言おうものなら、「”世間の多数派とは異なる評価軸もった俺はかっこいい”という自意識が透けて見える」などといった地獄のようなおなじみの揶揄が飛んでくるだろう。サブカルは邪な魂をもった人間だと考えられている。翻ってヤンキーは純情な人たちとされる。

「テメェどこ中だコラ」というのはヤンキー流のおなじみの挨拶だ。やはり党派性の強い人ほど他人の党派が気なるもので、仲間ではない者は「何とか主義」という仮初の呼称を与えられ、敵対するものとして措かれる。ヤンキーの辞書に相対という文字はない。早い話が「タイマンはれやコラ」である。相対的であろうとすればをイモを引いたということになってしまう。そのあたりがやはり覇道である。いくらヤンキーといえども一人でビーチフラッグをするわけにはいかない。

岸田秀先生よろしくペリー来航のトラウマということで全て片がつく話かもしれない。ヤンキー対サブカルは幕末期における日米の関係の反復にすぎないと考えてみる。サブカルが辺境で細々とそれなりに楽しくやっていたら、ヤンキーが軍艦を従えてやってきたのだ。しかしこの来航には捻りがある。「ペリエとか飲んでんじゃねぇよ。おれといっしょに鎖国しろやコラ。」と言って迫ってきたのだ。ヤンキーという横文字の人たちがハイカラに対するバンカラという立場を取っているのが皮肉だといえよう。

ヤンキーへ意趣返しすれば良いというものではない。心情的に旗色の悪いサブカル寄りになってしまっているが、そもそもパックス・サブカルチャーナの確立を願っているわけではない。そんなものは矛盾である。ともかく優位を説くことは目的としていない。正味ここに落とし穴があってファナティックな態度を退けようと思ってもやり方がヤンキー的であれば元の木阿弥だ。「テメェ、ナンダそのファナティックな態度はヨオ!物事に懐疑的になれやコラ!思考停止してんじゃねぇよ!」そんなこと言われても、放っといて!ってなもんである。また、少しでも気の利いたヤンキーなら似たようなことを言うだろう。それに、ヤンキーはある意味で「居直りの権化」でもあるから、非難すればするほどそれを養分としてぶくぶくと巨大になっていく一方だ。対立項にヤンキーを置くことはヤンキーに加担することに他ならない。

物事を二項対立で捉えて考えることはわかりやすいし面白くもある。縄文VS弥生とか、平家VS源氏、倒幕派VS佐幕派などといった話は楽しい。また、片方がもう片方をやっつけるときの快感というのもあるだろう。踏み絵というものがある。やらされる方は堪ったもんじゃないが、させる方はさぞ気持ちが良いことだろうと思う。脳内でヤバイ物質が分泌されていそうだ。そんなもんは下衆でしかないが。下衆汁という名前をつけておこう。卑近な例で言うと飲み会で人に空気を読ませたときなどに下衆汁は分泌される。言いたくもないことを言わされるこんな世の中というのも一方ではあったりする。

自分や他の人が何かを語っても立場の表明にしかならないのかと思う。どうせサブカルでしょとか、どうせヤンキーでしょと言っておしまいだ。蒼井優が好きと言ったときの条件反射的な「”世間の多数派とは異なる評価軸もった俺はかっこ良い”という自意識が透けて見える」といった言葉するのも憚られるような紋切り型の反応のように、もっぱらそれを好きと言った人と自分との差異を確認することにしかならず、蒼井優という対象それ自体にまで話が及ばない場合が多い。

思春期を過ぎたら自意識がどうのといった話をしなくて済むものだと思っていた。好きなものそれ自体について自由に語ることができると考えていたが甘かった。今にしてみればそんな都合の良い話があるわけないと思う。パーマをあてて登校したら皆が絶賛してくれると思うのと同じ程度に見通しが甘い。似合ってないとか、おばさんみたいとか、急に色気づいてどうしたの?もてたいの?などと言われるのが世の常だ。蒼井優好きの友人が言った「つまるところサブカルの弱さだよな」とはむしろこの認識の甘さのことではないかと思う。

そもそもの話、何かものを選ぶという行為が争いに参入することなのかもしれない。例えばMacを選ぶということはウィンドウズへの宣戦布告と看做されるというように。実際にMacを使用する人がどれくらいの意気込みを持ってそれを使用しているか知るところではないが、見た目がイカすからMac買お、という軽い気持ちであったとしても、血なまぐさい争いに巻き込まれることは必至だ。こういったことが現実としてあることは受け入れておくべきだとは思う。かといって、別にやっつけたくないし、やっつけられたくもない。むしろここで漁夫の利を狙うという手もある。どのような利が得られるのか謎だが。 その利を想像すると全てがアホらしく思えてきて笑えるし泣ける。

文化的な恨みは食べ物の恨みの恐ろしさに勝るとも劣らない。他人の褌で溜飲を下げれば同時に必ず品位も落とすことになる。人を呪わば穴二つ。それでも愛されたいなどというのはあまりにも勝手すぎる。

 

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