日記&ザ・コルベッツ

某月某日

マック・デマルコの前座を務める。ファンとして誠に光栄なことだ。

ステージから見たところ半分以上が外国のお客さんで、みなさんそれぞれ気ままに踊っていたので楽しかった。こういうことをいうと「え?ライブって絶対踊らなきゃいけないんですか」と思う人もいるだろう。別に踊ろうが踊らまいがどちらでも良いと思う。ただし、踊ってるほうが可愛いし、踊らせてるほうが可愛いよということだけは間違いない。

マック・デマルコのライブをステージ脇から聴いていたが中音の音が絶品だった。そもそも音が出てくるタイミングが我々とは全く異なるように感じられた。そして音にスピード感がある。また出てきた音も体全体に心地よく共鳴するところがあった。

この中音には非常にショックを受け、それ以来中音を意識するようになったが、全然理想通りにならずただただ違和感が積もっていくだけだから悲しい。

外タレの音を良くいうと「え?逆に日本人の音ってそんなに駄目なんですか?」と感じる人がいるかもしれない。それに関しては駄目な人もいるし駄目じゃない人もいるとしか言いようがない。スネークマンショーではないが。単純に聴いていて気持ちが良いと感じる音を追求したいだけの話で、本物ないし原典がどうのといったことはすこぶるどうでもよく、欧米に追従せねばならぬと考えているわけではないことははっきりさせておきたい。同時に欧米に追従することを悪いことだとは思わないし、頑なに欧米に追従しないことを良いことだとも思わない。

アジアンカンフージェネレーションの後藤さんのつぶやきに端を発する「日本人と低音問題」は結局なんだかよくわからない日本文化論になってしまった。アジアンの後藤さんは件のツイートで「日本」という単語を使わなかったが、拡散するうちに自然と「日本人と低音」というテーマになっていった。

日本文化論のようなものはすべて信用ならないと疑ってかかって良いだろう。ただの印象論に過ぎない話も主語に「日本人」を持ってくるとなんだかもっともらしくなるから警戒が必要である。

日本人は元々農耕民族だから裏拍が弱いというようなことを度々耳にするが、だからなんなんだとしか言いようがない。こういったプラクティカルのプの字もない戯言は速やかにスワイプして消すのが吉。

自分にとって「日本ってすごい!」といったコンテンツも「だから日本はしょぼいのだ」というコンテンツもどちらも等しくどうでも良し。なぜなら国を内面化していないから。なんてことを自分で言うのは簡単だが結局自覚がないだけで内面化している部分も確実にあるだろう。通りで「おい日本人!」という声が聞こえてきたらついつい振り向いてしまいそうだ。日本人であることに間違いないのだから当たり前か。日本人であることに間違いはないものの、日本という国を内面化しているつもりはないし、自ら積極的に内面化するつもりもない。ついでにいうとそれが良いことなのか悪いことなのかは今のところ未知数。

話が逸れるが、友人に「愛国心って持ってる?」と聞かれて答えに窮していたら、友人が「愛国心ってよくわからないよな。郷土愛なら持ちようがあるけれど」と言ったのが印象に残っている。学生の頃、飲食店でバイトしているときに、テニサーの幹事長を務める明らかに自分なんかよりも器の大きい先輩とシフトについてメールでやりとりしていたら唐突に「もっと愛着もってやってあげてね」と言われたことがある。そういう風に見られているのかと思ったらなんだか惨めな気持ちになったし、愛着を持つかどうかは自分のハートに従えば良いと考えていたからそのように言われてショックを受けた。それ以来「愛着もってやってあげてね」とか「みんなで応援しよう」とか言われるのが心底嫌になってしまった。愛着を持つことや応援することが嫌なのではなく、そういうことを人から言われるのが嫌という話。正直そこは他人が安易に踏み込んではいけない領域だと思う。だいたい愛着を持つにしろ応援するにしろいちいちそんなことを周りに表明したりしない。「口に出して言わなきゃ思ってないのと一緒だよ!」なんてことを言ってくる輩がいれば、彼彼女のキーボードにきな粉をぶちまけたり、おばあちゃんが腰に貼ったままお風呂に入り水を吸ってブヨブヨになった湿布を家のポストに投函するなどして何かしらの気持ちを表明したいと思う。

話は日本文化論の危なっかしさに戻る。リズムがらみの文章を書くときになるべく「日本」ないし「日本人」という単語を使わないようにしている。「黒人」という言葉も使いたくない。できれば「グルーヴ」や「ノリ」も使いたくないのだが、便利だからたまに使ってしまう。

「日本」という単語を使わないからと言って当然「日本人独特のリズムのクセ」と言うほかにどうしようもないものがこの世から消えてなくなるわけではない。リハスタなどで「ザ日本人のリズムという感じがするのでもうちょっとどうにかしてほしい」というようなことを言うことがあるのだが、日本人という言葉をネガティブな意味あいで使うとやはり人は良い顔をしない。そういうおまえも日本人だろう、おまえに言われる筋合いはないということなのだろうか。

国を内面化している自覚はないものの、それでもやはり大瀧詠一が言うところの「分母分子」には自覚的でいたい。文化が交わる際のダイナミズムを感じたい。流しに長らく放置したままの食器に溜まった水が腐った臭いって嗅いだことありますか。水だろうが文化だろうが淀んだ状態がとにかくイヤ。みやぞんが言っていた「フレッシュ感がないとイヤなんですよ」という言葉に100%同意する。

リズムに関する文章を書くときに「日本」や「黒人」という言葉を使わないようにしているとは既に述べた。なにか文章を書くときにはなんとなく使わない単語リストのようなものを考えるようにしている。実際に書き出すわけではないが。

例えばトリプルファイヤーについて何か書かなくてはいけないとなったらまず「タイト」「ミニマル」「ストイック」あたりは絶対に使いたくない。あとは「グルーヴ」あたりか。

こういうことを言っていると何かを勘違いした人に捻くれ者ですねと言われそうだが、これは捻くれた根性からくるものではなく、よく流通している表現にフレッシュ感がないから使うのがイヤなだけだ。突飛なことを言えば良いということでもないが、何かレビューのようなものを読んだときにわっと驚かされたい気持ちがある。それは求めすぎというものか。我々は的を射る瞬間が見たいのであって誰かが射った的を「刺さってますね!」なんて言いながら指を差しているところが見たいわけではない。そんなところを見せられても何ひとつ面白くない。とは言っても結局何を言ったところで誰かの受け売りでしかないことには自覚的でなくてはならない。だからこそせめて自分で矢を放つぐらいのことはしたいとは思う。

人とは異なる意見を言うと「逆張り」といって揶揄する人がいる。逆張りをする人もなく、皆がうんうん頷きあっているような環境では水は淀んで腐るだけだろう。そんな環境でも慣れてしまえばその腐臭も心を落ち着かせるアロマのような役割を果たすようになるかもしれないが、とき既に遅しでもはやそこから抜け出すことは不可能。そんなのはフレッシュ感がないから絶対にイヤだ。

 

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