メロコアあるいはコア系と私

※2012年1月12日に書いたテキストを加筆修正したものです。

中学時代はご多分に漏れずハイスタのコピーをしていた。3年生のときには文化祭のステージにあがりバンドで演奏もした。持ち時間が10分のところ、テンポを上げて無理やり4曲演奏した。曲目は、”Fighting Fist, Angry Soul”、”Glory”、”New Life”、”Mosh Under The Rainbow”だった。PAという概念がないのでマイクが立っているのはボーカルのみ。ギターソロの場面では文化祭の司会を務める友人に頼み手持ちのマイクでアンプの音を拾ってもらうということをした。

その日の様子はギターボーカルを務めた友達のお母さんがビデオに撮影してくれていて、高校生のときに見返したら自分の演奏がかなり走っていて恥ずかしくなった。この頃は、合奏することがなんなのかもよくわかっていなかった。ちなみにこのバンド、ギターボーカルを含めてギターが3人いるという謎のバンドであった。

ハイスタという名を初めて耳にしたのは従姉に教えてもらったときのことだった。6つ齢の離れた従姉が『Angry Fist』をカセットテープにダビングしてくれたのだった。寸評が書かれたメモが一緒に入っており、そこで「コア系」という言葉が使われていた。今でこそ「コア系」なる言葉は死後であるが、当時はわりと一般的に使われていた言葉だったように思う。「ハードコア」から派生した「スカコア」「メロコア」などを全てひっくるめて「コア系」などと呼んでいたようだ。またはそういった音楽を好む人のことであったり、そういう人がしている服装をコア系と呼ぶこともあるようだ。

テープをもらったのはおそらく1999年で小6のときのことである。聴いてみたものの、なんだかよくわかんないなという具合であった。当時の感触を思い出すと、「若者っぽい」という印象を抱いていたような気がする。といっても一曲目を30秒ぐらいしか聴いていない。

中1の誕生日プレゼントでギターを買ってもらった。日付も覚えている。2000年の6月11日。特に確たる理由もなしになんとなくおもしろそうだなあと思いギターを始めたので(今にして考えるとマイケル・J・フォックスの影響だったのではないかと思う)、これといってコピーしたいと思う曲もなく、最初のうちは教則本でコードを覚えたりしていた。その後、教則本のコラムからジミー・ペイジやリッチー・ブラックモア、ブライアン・メイ、サンタナ、アンディ・サマーズという名前を覚え、関連するバンドのベストアルバムを借りてきたりしてロックを聴き始め、「ヤングギター」や「ギターマガジン」に掲載されたTAB譜を参考に「往年の名リフ」などをコピーするようになった。

とりあえずバンドというものがやってみたくなり、その年の夏に友達を半ば無理矢理説き伏せてバンドをやることにした。ベースをやることになった友達がバンドを始めたことをギターをやっている仲の良い3年生の先輩に言ったところ、「俺が色々と教えてやる」という話になり、教えを請うことになった。休日にその先輩が住んでいる団地の一階にある集会所ような場所を借りて練習することになった。先輩は、坊主頭のガタイが良い人物で、名をさとしといい、我々は「さとしくん」と呼んでいた。

さとしくんは「おまえらハイスタやんなきゃダメだよ」というようなことを言い、彼は課題曲に”Fighting Fist, Angry Soul”を選んだ。しかしその課題曲の音源は用意されていなかった。ろくに聴いたことのない曲をTAB譜とさとしくんの実演を手本にしてひたすら練習して日が暮れていった。その曲がどんな曲なのか聴かないことには始まらないということで、後日従姉にCDを借りることにした。これがハイスタとの二度目の出会いとなった。一度目は従姉から流行りの音楽として教わり、二度目はギターのお手本として先輩から教えてもらうという出会い方をした。これが2000年の秋のこと。”Fighting Fist, Angry Soul”はギターで弾ける曲の第一号となった。

ちなみに、その頃はハイスタのメンバーがどんな顔をしているのか知らなかった。今では、音楽そのものは好きでもやってる本人の顔は知らないというものはザラにあるし、そんなことをいちいち意識することもないが、今にしてみると、これは当時の自分にしては新しいことであったかと思う。おそらくハイスタの姿形を最初に確認したのは、『Making The Road』のスコアに掲載された写真をみたときだったかと思う。黄色いディルドを持ってステージに立っている写真だ。

当時地元のビデオCDレンタル屋にコア系コーナーというのがあって、そこでハイスタ周辺のバンドも知ることができた。といっても、主にブラフマンぐらいなもんで、スキャフルキング、ポットショット、バックドロップボム、シャーベット、レンチ、バルザック、ハスキングビーなどは全然聴いていなかった。あとは、たまにマッドカプセルマーケッツとかスネイルランプを聴いたりした。「コア系」でもオリコンのシングルチャートの上位に来るようなものしか聴いていないということである。

当時はハイスタよりもブラフマンのほうが格好良いと感じていた。「ロック的な格好良さ」という尺度で聴いたときにやはり『長調のハイスタ』よりも『短調のブラフマン』のほうがサマになっていると感じたのではないかと今にして思う。短調というのはサマになりやすいが、一方長調をサマにするというのはなかなかこれが難しい。またブラフマンには「シャウト」があったことも忘れてはならない。「シャウト」は思春期の男子としてはやはり痺れるものがある。

学内においても「コア系」バンドは一部の生徒に人気があった。3年生が「昼の放送」でハイスタやブラフマン、山嵐などをよく流しており、学校にいる間にも耳にする機会があった。どこの中学校でも同じなのかもしれないが、放送委員会の学内ヒエラルキーの上層部に位置するような生徒が関与しており、軽くヤンキーが入った先輩が「昼の放送」で自分たちの好きな音楽をかけるということをしていた。それに影響されて、同学年の快活な生徒たちも徐々に「コア系」を聴くようになっていった。

中一のときの文化祭のステージでは「コア系」のコピーバンドが3つ出ていた。そのうちの2バンドはちょっとヤンキー入った先輩達がB系(これもまた死語)とスケーターの間の子のような格好をしてハイスタやブラフマンのコピーをしていた。ひとつのバンドはメンバーが代わる代わる交代していた。楽器をやっていた生徒がわりと多かったということが伺い知れる。ギターの先生であるさとしくんもバンドを組んでステージに出演していたが、学校のジャージを着て19(ジューク)などと一緒にハイスタのコピーをしていた。

中二のときは、同級生と文化祭のステージに出ようということになり少し練習したりしてみたが技術上の問題で頓挫してしまった。要するにロクに弾ける奴がいなかったということである。

我々が文化祭のステージにあがろうとしていると知った上級生がごちゃごちゃ文句垂れていることを仲の良い先輩から聞かされたが、全く意に介さなかった。その年の上級生たちは前年度の三年生に比べると気合が入っていなかったので結構ナメられていたのだ。

その年のステージでは、ひとつ上の学年の女子生徒たちがバンドで出演していた。このバンドもハイスタをコピーしていた。このバンドは、メンバーに楽器屋と音楽教室を経営する家庭の生徒がいたため機材が充実していた。しかし、バンドでの演奏は2曲ほどに留めて、ゲストを呼びこみアカペラで何曲か披露していた。当時ハモネプが流行っていたのである。

文化祭のステージの変遷をみていくと、ヤンキー入った先輩たちが気合を入れて演奏していた「コア系」は、中流家庭の生徒達が楽しげに演奏するものに変わっていったということがわかる。当然、翌年ステージに立った我々のバンドも後者に属していたことになる。とはいってもヤンキーがかった世界観には憧れを持っていたから、やはりスケーターとB系の間の子みたいな衣装を着てステージに立った。

なんとはなしに、我々は「コア系」を享受した最後の世代ではないかと考えている。モンゴル800にどのように接したが分水嶺になるだろ。

モンゴル800の『MESSAGE』は2001年9月に発売され、ジワジワと売りあげを伸ばし、翌年4月にはオリコン1位を獲得した。同級生でも聴いている人が多く、お昼の放送でもよく流れていた。

モンパチはハイスタやブラフマンの仲間としてやはり従姉からオススメされていたから既に知ってはいた。99年の『GO ON AS YOU ARE』を貸してもらい良く聴いていた。アタックのCMで起用されたときはとても意外でだ驚かされた。

モンパチを「コア系」として受け取っている人は少数だったかと思う。むしろその後来る「青春パンク」に属するものとして考えている人が多いような気がする。ちなみにうちの学校ではゴイステを聴いている人はまるでいなかった。

ここまで国内のバンドの話であったが、当時は海外のメロコアバンドも平行して聴いていてむしろそちらのほうがメインを占めていた。主に聴いていたのは、NOFX、グリーンデイ、オフスプリングといった有名所だ。少し毛色は違うが、近しいものとしてランシドも好んで聴いていた。どれも西海岸のバンドではある。

2000年の夏に『ランシドV』が発売されて、たまたまラジオで”Let Me Go”を聴き、世の中にこれほど格好良い音楽があるのかと興奮し自転車を走らせてCDを買いに走った。ドクロのジャケが中学生感覚をくすぐる名盤であった。これが契機となって、海外のメロコア、パンクに興味をもつようになったのである。

その他のバンドは当時どういう状況であったか。オフスプリングは98年のヒット曲である”Pretty Fly (for a White Guy)”がよくラジオで流れていた。この曲はメロコア云々というより洋楽の一ヒット曲として受け入れていた。言うなれば、シャンプーの”Trouble”のようなものであった。「アハーンアハーン」というコーラスはどう考えたってキャッチーである。2000年11月には『Conspiracy of One』がリリースされたので、発売して間もなく購入した。

NOFXは、同年6月に『Pump up the Volume』が発売されたばかりで輸入盤を扱うレコード屋や雑誌でよく目にしていた。「ランシドの仲間(元レーベルメイト)」ということを知り、聴いてみたのだが、これがあまりキャッチーではなかったので当時の自分としてはグッとこなかった。その年の秋ぐらいに名盤『White Trash, Two Heebs and a Bean』を聴き、ようやくNOFXにハマることができた。

同年10月、グリーンデイは『Warning』をリリースする。その時点で、グリーンデイは「メロコアの雄」という認識を持っていたので、かなり期待して『Warning』を聴いたのだが、音は大人しくテンポもゆったり目で退屈に感じられる曲が多く非常にがっかりした記憶がある。ジャケットも今イチぱっとしない印象があった。その後もグリーンデイにハマることはなかった。”Bascket Case”はさすがに良い曲だと思ったが。

その後、遡って色んなアルバムを聴いてみたたが、やはりランシドとNOFXがお気に入りだった。2002年の3月にはNOFXとランシドがお互いの曲をカバーしあうという企画盤が発売されて、当時それが大好きでよく聴いていた。

また、リアルタイムのバンドと平行して、セックスピストルズやクラッシュなどのパンクも少しずつ聴くようになった。2002年はパンク誕生25周年ということもあって、雑誌などでもパンクの特集が組まれることが多かったのだ。今では考えられないが中高の6年間はパンクに類する音楽をよく聴いていた。しかし、例えばStiff Little Fingersの”Suspect Device”などを聴くと「やったー!」という気持ちなる。

2000年頃は、米西海岸の若者文化への漠然とした憧れをもっていた。舶来のものが格好良く目に映るというところがあった。部活でバスケを選ぶ時点でそういうところが既にあったと言えるだろう。ただ西海岸の若者文化をちゃんと認識していたわけでなく、Stussy、DC Shoe、Supreme、X-Large、マーク・ゴンザレス、スラッシャーマガジンといったものを雑誌『Smart』などを介し、全部一緒くたにボンヤリと受け入れていた。だから誤解の入り交じった、ほとんど自分だけの幻想、妄想であったと言ってもいい。Supremeに関してはニューヨークのブランドであるし。ともあれ、スケーターカルチャーを中心とした西海岸の若者文化に憧れを持っていたということである。

メロコアバンドのPVを観ていると若者がスケボーをしている姿がよく見受けられた。だから当然スケーターカルチャーとメロコアはセットになっていた。ハイスタもアルバムのジャケットにスケボーしている様子が描かれていたり、スケボーやBMX、アウトドア用品を扱う『STORMY』というお店のステッカーが楽器に貼ってあったりした。(スケボーということを考えると、ここにもマイケル・J・フォックスの前フリが利いているような気がする。ちなみにBTTFの舞台はカリフォルニアの郊外)中2のときだったか、実際にスケボーを購入し、練習したもののいつまでたってもオーリーができるようにならず、しょうがないので家の前の坂をスケボーに股がって下ったりするうちに飽きてしまい、すぐにやらなくなってしまった。

ところで、60年代前半にも西海岸で若者の生活または風俗を歌ったバンドがあった。そのバンドは、当時、若者の間で流行っていたサーフィンやホットロッドなるものを題材に歌を作った。ご存知ビーチボーイズである。

サーフ/ホットロッド時代のビーチボーイズは50年代中期のロックンロール〜60年代前半のポップスを土台にしていた。この頃に多用されたポップス黄金律的なコード進行を元にし、演奏を単純化し、喧しく表現したバンドが70年代後半のニューヨークに登場したラモーンズである。

ビーチボーイズ〜ラモーンズという流れを想定すると、ハイスタはその系譜上のあると言えるのではないか。ビーチボーイズの時代にサーフボードだったものがスケートボードに変わったということではないだろうか。また、ハイスタにはCFGまたはCAmFGといったポップス黄金律進行の曲が多く、またメロディはシンプルで親しみやすく童謡的なところがある。そこはラモーンズと共通するところであるが、ハイスタはラモーンズよりもさらに喧しく且つ鋭く演奏した。

ハイスタは、喧しさと鋭さをスラッシュメタルから引っ張ってきたといえる。(ハードコア経由なのかもしれないが、横山健はスラッシュメタルが好きだったとインタビューで言っていたような)そして、このスラッシュメタル的なリフというのは我々と非常に相性が良いような気がするのだが、どうだろう。「ジャッ!ジャッジャッジャーッ!」という切れ味のあるギターは書道の「とめはね」というのに近い気がしている。あとは歌舞伎の「大見得を切る」という所作であったり、特撮ヒーローの決めポーズといったもの。または、北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』のあの感じ。ダイナミックな一時停止というか。そういう意味で少年漫画も近いのかもしれない。効果線などで表される動的な静止画であるコマの感じは、スラッシュメタルのクラッシュシンバルミュートに近いものを感じる。瞬間をデフォルメするというふうにいえばよいのだろうか。

スラッシュ的なリズムというのは、点をいくつも置いていき、それを繋いで線にしているというような印象がある。それに対し、例えばソウルやファンクのリズムは初めから存在する線上に点を置いていったというような印象を受ける。それがよりロック的なものに近づいていくと点を「強調」する方向に進んで行く。「強調」された点というのはことさら目をひく(もとい耳をひく)ので、始めにあった線が目立たなくなる。

ここで突然、寿司屋に例えてみよう。最初から一定のスピードで流れているベルトコンベアーに寿司を置いて行くという回転寿司がソウル・ファンク的なリズムだと仮定すると、 「ヘイお待ち!」とカウンターに皿を置くというのがロックのリズムだといえよう。

長々と当時の思い出話を書いてきたわけだけど、厳密にはハイスタの全盛期はリアルタイムで経験していない。ハイスタをコピーしていた頃にはもう彼らは活動休止していた。だからだろうか、去年、AIR JAMが開催されたが個人的には特に盛り上がらなかった。リアルタイムの熱気というものを経験していないからだといえるかもしれないが、むしろ、思い入れの対象が友達との思い出であったり自分の経験の方にあるからだと考えられる。それももはやただの思い出でしかない。あの頃の未来に僕らは立っていないのだ。それゆえに14歳の自分に教えてあげたいことなど何一つとしてないし、当時の自分が今の自分を見たところで「お前から教わることなど一つもなし」と思うことだろう。

 

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