夢の話に遠慮は無用

今思い返すとあのときどうにかなっててもおかしくないよな、という話。

学生の頃、サークルの部室に皆で集まっていたときのことだ。誰に言うでもなく「あー、今日の夢やばかったなあ」と呟いた。目の前にいた友人が微塵も興味がなさそうだったものの親切心で「どんな夢だったの?」と尋ねてくれた。私はなぜか急に照れてしまいニヤニヤしながらやや間を置いて「ンフー、秘密!」と返した。友人は黙って私の顔を見つめていた。そのときの彼の眼は非常に恐ろしいものであった。

この世には目を覆ってしまいたくなるような邪悪なものが確かに存在する。そういったものと比べればまだ可愛いほうかもしれないが、それでもそのときの私は巨悪だったと思う。

今こうして思い出話のひとつとしてこれを話題にあげることができているのも、彼の器のでかさ及び忍耐力の強さのおかげだ。本当にありがとう。

夢の話ほど需要と供給が不釣合いなものはないかもしれない。内容がどうこう以前に、もう夢というだけでその話お断りという人もまま見受けられる。夢というのは大抵が荒唐無稽で脈絡がなくオチがないものだしそれを退屈だと感じるのも頷けることではある。しかし巨悪にしてみればそれがどうしたという話でしかない。もしも自分が独裁者だったらきっと新聞に「総統夢日記」というコーナーを作るだろう。想像しただけでゾクゾクする。

しかし、世の中には、どうでも良いことに対して「まじでどうでも良いわ」と宣言したいと思っている人が一定数存在する。確かに物事に対して「どうでも良い」と表明することにはカタルシスがある。私の「ンフー、秘密!」という一言に対して友人が怒りに打ち震えた理由には私が彼のカタルシスを阻害したことがそのひとつとして挙げられるだろう。そういった形で需要が存在するからこそ、どうでも良いことは日夜絶えることなく供給され続けなければいけない。そこら中で量産されている夢の話もそういったものの一つだ。

世界からどうでも良いことが一切なくなってしまったときのことを想像してみよう。全ての事物がどうでも良くないことになってしまうのだ。私が今ここで必死に左肘を舌で舐めようと奮闘していることが誰かにとってどうでも良くないことになってしまったら?私はその人のことが気の毒でしょうがない。誰がそんな世界を望むだろう。

だから人間は毎晩夢を見るのだし、翌朝誰かにそれを話したくなるのだ。そういった営為によって世界の均衡は保たれている。 どうでも良いことはどうでも良いこととして存在しなければいけない。どうでも良いことがどうでも良くなくなってからどうでも良いことのどうでも良さを痛感したとしてもそれでは手遅れなのだ。だから夢の話をすることに遠慮など必要ないのである。というわけで以前twitter上で呟いたオールタイム・ベスト悪夢を結びに代えたいと思う。

悪夢を見た。田中邦衛の性欲処理のために開発された田中邦衛のクローン 人間。それが俺。感覚が同期されているので邦衛がいじると俺もムズムズする。「同じ人間なんだから仲良くしようぜ」と迫ってくる邦衛への恐怖と自分の宿命に対する絶望から川に投身するところで目が覚めた。

 

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