どうしようもない恋の日記 Part2

ある時期暇で暇で仕方のない日々を過ごしていた。というのは嘘だ。暇であったことは本当だけれど、決して仕方のない日々だとは思っていなかった。

受験生だった頃は、毎日、市の図書館に通っていたのだが、司書の人に「あの子毎日来るけどよっぽどやることがないのね」と思われてはいまいかと心配になることもあった。

体面さえ気にしなければ暇ほど良いものはない。

暇を謳歌していた当時、何かに誘われて難色を示すとどうせ暇でしょと言ってくる人がいた。こういう人と自分とでは暇に対する認識にズレがあるように思う。こちらは暇がしたくて予定を空けているのだ。こういう手合いは人の部屋に上がるなり部屋を隅々見渡した挙句、決まって次のようなことを口走る。

「ここのデッドスペース、もったいないねぇ」

一人でテトリスでもやっておけと思う。こういう輩は自分と他人の区別がいまいちついていないらしく、一度、他人の上着をおふざけで着てみたかと思うと、「これでかくない?」などという間抜けなことを言うのを聞いたことがあった。なぜ互いの体格の差をすっ飛ばしてそんなことが言えてしまうのか。おそらく、その人なりの強がりなのだろうが、なぜ強がる必要があるのか謎である。どのような精神のバランスの取り方なのだろうかと思ってしまう。

そんなことはどうでも良い。暇についてだ。確かに行動力とか積極性というものは持っていてしかるべき特性かもしれない。しかしその一方で、何もしたくないということが信条であるものぐさが生む洗練というものもある。

世に煩わしいもの。それは家事全般。ここでは洗濯を挙げたい。

洗うところまでは良い。なぜなら洗濯機がやってくれるから。洗濯機が終了の合図を出してからが問題だ。干すとなるとこれは自分でやる他ない。乾燥機のことは言わないでおいてほしい。

干すことは面倒である。いや、干すということに限って言えば案外その動作は容易いものであるかもしれないが、干すに至るまでの屈んだり拾いあげたり広げたり通したり掛けたり下げたり留めたりする動作の連続、これが非常に煩わしい。その煩わしさゆえに洗濯カゴに取り込まれた衣類はトイレに行くときに行く手を阻むもの程度にしか認識されずに放置されるのである。

しかし不思議なものでことさら干すということをしなくても濡れた衣類というのは放っておけば自然と乾くのである。そこで「待てば海路の日和あり」なんて呑気なことを言っていられれば良いのだが、実際のところはこのようにして乾かした衣類は使い物にならない。理由はお察しの通りである。鼻が利く人ならわかることだろう。

さて、問題なのは明日履く靴下がない場合である。これは困ったことである。さてこの生乾きの靴下をどうしたものか。

7年ぐらい使っているMacBookの排熱が酷くて困っていたのだが、逆転の発想で、これに目をつけた。

寝る前に洗濯カゴからつがいの靴下を取り出してMacBookの上にそっと添えて床につく。朝起きるとそこに温かい靴下が出来上がっているのである。これをものぐさが生んだ洗練と言わずして何と呼ぶか。

 

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